サモ・ハン・キンポーになれなくて

ホヤを捌いたり料理したり本を読むブログどすえ

繋がる個体の可愛さを語りたい。

あの子の本当を俺は知りません。あの子の嘘も俺は知らない。あの子の本当を知らない。あの子の嘘も嘘も俺は知らない。

読み終わった後に何となく向井秀徳の言葉が思い浮かんだような気がする。
昨年の12月にDモーニングに掲載されていた山本中学先生の繋がる個体が先日、単行本化になっていた事を知ると急いで近場の本屋で1巻と2巻を購入した。

30歳。第二童貞の井口は同僚に無理やりコンパに誘われるとそこで高校生のここみと出会う。
ここみに惹かれつつも女子高生ということもあり井口は消極的になる。一方で高校生のここみは自分に惚れない井口に対して普通の男とは違うと思い、彼の事を好いてしまう。だが井口は同僚の元彼女であるくるみとの復縁も願っていた――
第1巻36頁までがこういう流れになっており、正直に言うと超王道年齢差のあるサラリーマンが頑張るマン系のラブコメディ。
だけどこの漫画は普通のラブコメとはどこか異質な雰囲気が漂っている。
話の感想等はネタバレもあるので伏せる。
ここに書きたい事はとりあえず女子高生・ここみについて話したいと思う。

大人びた容姿のようにも見えるが、言動や行動を見ると改めて彼女は本当に女子高生なのだと実感をする。
彼女の魅力というのは女子高生という肩書ではない。
さて私が思うに彼女の魅力というのは己を自覚しているという事だと思う。
何故そのような事を思ったか。彼女、ここみは己の可愛さを熟知をしているからだ。

言葉を悪く言えばナルシスト・うぬぼれ屋・自信家・自己陶酔者になってしまうが、彼女に関してはそんな言葉は全く似合わないのだ。



「何でぎゅっとしてこないわけ!?普通するでしょ!私がしたらぎゅって!!」

 

彼女は本当の可愛さという物を知っているんです。自信満々の発言に抱きつかれた主人公の井口も困惑するのも頷ける。
彼女自身、本気で苛つきながら眉間に皺を寄せて主人公の井口に文句を言っている時点で己の可愛さに相当な自信を持っている事が分かる。
可愛い子が自身を可愛いと言っていても、恐らく私は腹が立つという感情は1ミリも抱かない。
世の中には、ばらスィー先生の著作「苺ましまろ」のキャッチコピーである可愛いは正義という言葉があります。
本当にこの言葉に尽きると思います。事実、彼女は可愛いわけで、普通の男なら可愛い子にこのような事をやられた一発で落ちてしまうのが、もはや自然の摂理みたいなものの様な気がする。仮にこの行動がココちゃんではなく、まん○画太郎が描くババアとかなら防衛本能が働き顔面グーパンチは確実でしょう。

苺ましまろ 1 (電撃コミックス)

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ココちゃんの可愛い所は他にもある。

行動だけではなく表情がコロコロ変わる所も魅力的な所の一つだ。
喜怒哀楽が露骨に顔に出しており、どこか犬のような愛くるしさというのもある。


こんなに可愛いくて想ってくれている人がいれば落ちてもおかしくない。
だが主人公は元彼女のくるみの事を未だに想っている。いい塩梅の三角関係のような物はどことなく、めぞん一刻の五代くん。音無さん。こずえちゃんのような関係を彷彿させる。

優柔不断の五代くんと優柔不断の井口。
面倒くさいけど可愛い音無さんと面倒くさいけど可愛いくるみ。
そして振り向かせる為に全力なこずえちゃんとココちゃん。


この世の漫画で一番好きなのはめぞん一刻で、好きなキャラもこずえちゃん。
互いに振り向かせる為に全力勝負。
例えるならば2006年オールスターで当時阪神藤川球児カブレラ(当時西武)とガッツこと小笠原(当時日ハム)に対して全球直球勝負で二人とも三振に切った時のような感覚だろうか。

だがそんな直球勝負というのは若いから出来る行為だという事も分かる。
恋する女子高生というのは好きな人が好きになってもらう為に直球勝負をする。
だが歳を重ね、数々の恋愛、そして失敗を繰り返すと素直な気持ちを吐き出すことはせず内に秘めてしまう事が多くなるのも事実。
彼女の若さからできる臆することがない精神、器用な事をせず直球ド真ん中な彼女は憧れに近い物があり、私の中で藤川球児=ココちゃんになった。

この作品の登場キャラは感情を移入するキャラが非常に多い。
井口。くるみ。ココちゃん。チワワ。
主人公である井口に共感を覚える事が多いが、くるみの心情やココちゃんやチワワの想いの表情を汲み取ると、もはや全員が可愛いとも思えてくる。

繋がりたい。でも繋がらない。
そういう距離感が好きなせいもあって自分も年々歪んだ感情を抱く事になるんだろうか。
どちらにしても私の中で上半期で最高に面白かったのは確かではある。

下記リンクで1話試し読みができます(宣伝)

www.moae.jp

 

繋がる個体(1) (モーニング)

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繋がる個体(2)

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母の日だから読むべき漫画、水色の部屋を読んだ。

歪んだ性愛という物はとにかく興奮を掻き立てる。
ただ、先日読んだ水色の部屋はただの歪んだ性愛だけで語られる漫画ではない事は確かだ。
歪んだ性愛の裏には優しさや安らぎがあるのも魅力的な一部ではある。
だが、その優しさや安らぎが逆に恐怖を与えてしまっているのも事実である。

まず水色の部屋というのはゴトウユキコ先生が描いた漫画だ。
ゴトウユキコ先生。そう、R-中学生やウシハルの御方です。これまた面白いんで買って読んでください。
それでこの水色の部屋というあらすじを簡単に説明をすると
高校生、主人公の柄本正文は母親のサホと二人暮らしをしており、正文は母親に対して歪んだ愛情を抱き、その歪な想いは事件へと発展していく話です。

水色部屋は母ちゃんと息子の性と愛が描かれている漫画なんです。
“母ちゃん”“性”もうこの時点で嫌悪感丸出しになっちゃうのも無理もない。
母ちゃんだもの。This is 母親だもの。こりゃ仕方ない。
ただ、これは色眼鏡で見ないでほしい。
皆の知っている母ちゃんが鼻くそだとすると、恐らく主人公の母ちゃんはかりんとうとかそういうレベルだと思う。
とにかく、この主人公の母ちゃんが可愛いんですよこれが。
大学生とかに見えてもおかしくないと思います。

横になってミヤネ屋を観ながらせんべいをバリバリ食べて下品な笑いをする事もなければ、ぶら下がり健康器を買ってみたものの一ヶ月で衣紋掛けになったり、すき家でお持ち帰り用の紅しょうがを大量に持って帰ったり、と主人公の母ちゃんは決してそんな事などしない。


日本の男性の好みを知り尽くしたような体型。
そして精神的な余裕などの度合いが高い包容力。
顔。

この3点が適合する主人公の母ちゃんは理想よね。というか応援をしたくなるね。

そんな羨ましい主人公の正文はまあ、どうしようもない男だと思う。
葛藤。思春期の断絶。そんな言葉を一言だけで済ませれば良い話には中々ならない。
母親がレイプをされる事に興奮を抱く主人公。
母親に性という眼差しで見る主人公。

コレもある意味で愛情と捉えてもよいだろうか。かなり屈折はしてはいるけど
こういうのはエロ漫画でも中々無い気がする。最も私が近親相姦物のエロ漫画を読まないだけかも知れないが、結局そういうのは父親が再婚して出来た母親とかそんな感じなのが限界だろう。

この漫画の上下巻を読んだ時は背筋が寒くなったと同時に賛辞を送りたくなった。
昭和時代の成人映画を観ているような雰囲気。スマホが登場するあたり年号は平成だと思われるが、そこはかとなく昭和臭さが滲み出ている。
決して悪い事ではなく、平成にはない昭和のような香りがするエロス。
fc2アダルトやxvideosとエロに困らなくなった世の中の一方で、河川敷に落ちていたエロ本、1000円で怪しげなビデオが買える自販機しかなかった昭和時代のエロスというような感じといったところだろうか。
そして、そのエロスから掛けての終盤の展開とラストのコマを見た時は「ああ……」と心からそう思えた。
上巻から下巻の終盤にかけて終始、剣山の上で正座をさせられていたような感覚に陥っていた。
だが、読み終えた頃には少なからずは解放されたと思いたい。
物語はしっかりとした結末ではない為、読者にとっては消化不良になってしまう人も恐らくはいるだろう。
読後もスッキリとはせず、どんよりとした雰囲気が最後まで続き、晴れる事は中々おきない。
根暗な奴には是非読んで欲しい。根暗な奴は読んだ後にでも、母親にカーネーションの一本か現金でも渡すんだよ。根暗じゃない人も現金を渡すんだよ。

あとがきにも書かれていたが、ゴトウ先生は暗い映画のような感じを作品で出したかったようで、人物の描写や風景や劇中の展開を見ると改めてこの漫画は映画のような漫画ではないかと思えてくる。

ちなみに私は三吉さんが好きです。ああいう芋臭い女の子は何かチンコに来るね。
こういう子こそエロが似合う、というか中々のド変態でした。

水色の部屋<上>

水色の部屋<上>

水色の部屋<下>

水色の部屋<下>

わがままちえちゃん。気が付けば最初から最後までちえちゃんに翻弄されていた。

先日、志村貴子先生のわがままちえちゃんを読みました。そこそこネタバレを含めつつ思った事を書きたい。
娘の家出やこいいじとは全く違うテイストであるが、こういう作品を読めることに喜びを感じた。
わがままちえちゃん。どこか可愛い雰囲気を匂わせるタイトルである。

この作品は現実や嘘や妄想などで埋め込まれている。一発で理解をするのは私には苦ではあったが、これも全てはちえちゃんの策略なのだろうかと勘繰ってしまう。
あの世とこの世に別れてしまった姉妹の話。
死別による傷は中々癒えるものではない。
時間の経過や環境、出会いの変化が起きる事によって次第に死の出来事を徐々に整理をつくことができるだろう。
それはやっぱりちえちゃんの事であり、タイトルでもそれは分かる。
ちえちゃんはわがままだ。ちえちゃんのわがままがきっかけで、私はちえちゃんの掌で動かされながら読んでいるような気分に陥ってしまう。


死というのは突然の出来事である。
序盤の出来事は何が現実で何が虚構なのかが分からない。
読み終えるとそれを理解する事が出来てしまうのは、人の死を受け入れてしまった時と似ている印象を抱く。
死別に関して動く感情や思春期ならではのぐらついた心理は非常に良く描けている。
彼女のような子供は正直、普通の思春期を迎えている子供たちよりも厄介、そして可愛い。
だけど、罪悪感というのは拭い切ることは、やはり難しいことで彼女は何度も何度も自分を責め続ける姿はやはり見ていて辛いものがある。身体を売り、同性と付き合う姿は屈折していて、いつの間にか好きになっていた私にとって寝取られた気分にもなる。
他者との出会いが屈折していた彼女を変えていく。どんでん返しのような結末ではないが、彼女にとってこれが一番の理想なのだろう。
思えばわがままちえちゃんという作品はアニメ『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。』と似ていると私は思う。

しかし、似ているようで全く似ていない。あの花は生死に対して明確化されており、めんまが亡くなっても「とりあえず死んでも友達だし、頑張るべ」みたいな話だったような気がする。内容がかなり欠落しているが前を向いて歩き出していた事は確かだ。一方で本作はまた違う。本作の主人公は迫り来る過去が原因で前に進めない、寧ろ進みたくないと受け取れる。故にタイトルのわがままを突き通してくるわけです。
結局、あの花が良いのか、わがままちえちゃんが悪いのかではなく、思春期特有のひん曲がっていた感情は私は“らしさ”が出ていて好きだ。


形は違えど、過去に依存しているのが分かる。

しかし、この作品の凄い所は主人公の可愛さだけではないと私は思う。
ただの漫画だと思っていたが、頁を捲るたびに思うのは行間の上手さだ。
小出しにした情報を出すことによって、各キャラクターの行動や感情、表情を読者の想像力を捻り出させてくれる。
こういった物は漫画ではあまりなく、映画ではよくある手法だ。そのやり方はやはり志村貴子さんらしい作り方だと思われる。
そして最後に、全てを読み返してから表紙を隅々まで見ると、色々と面白いと思いました。秀逸な作品です。

何度も何度も読み返し、そして納得させてしまうのはやはり素晴らしい。
この本はパチスロに行って勝った時に本屋で買った漫画。麻雀物語3本当にありがとう。
だけど、ウキウキしながら読んでしまった事をある意味後悔はしている。
もし、これが沈んでしまった時に買って、読んでしまっていたらどんな事を思っていたか、と思ってしまう。
それでも、やはり何も変わらないのだろうか。読み終わってからも色々と考えさせてしまう。


放浪息子の千葉さんにそっくりだなーと思っていたら、あとがきで言及されていて納得しました。
彼女が輪廻転生を繰り返してわがままちえちゃんの世界にやってきたのではないかと、勝手に思っていました。
でも、この漫画の最後のギミックが放浪息子の最後と似ていて、やっぱり千葉さんは輪廻転生したのではないか。

あ、そうだ。
5社合同企画で8冊連続刊行志村貴子まつりが開催中です。

  • 娘の家出2巻
  • こいいじ1巻
  • わがままちえちゃん
  • 淡島百景1巻
  • どうにかなる日々 新装版(ピンク・みどり)
  • 起きて最初にすることは
  • 志村貴子画集

2月から6月に掛けて毎月刊行されており、志村貴子作品が好きな人にとっては生唾を飲みたくなるでしょう。。
娘の家出やこいいじ、わがままちえちゃんとそうそうたるラインナップになっており、ぽこぽこでweb連載中の淡島百景もようやく刊行されます。
どうにかなる日々 新装版や志村貴子先生の画集も発売されるようなのでとても楽しみです。
起きて最初にすることははどうしようかな……

ハロー!!きんいろモザイクになりたくて

思い起こせば2年の歳月が過ぎてしまった。
彼女に再び会いたくて片眉を落とし、山篭りをした事を昨日の事のように思い出す。
ただ、彼女達に会いたくて生きてきた幾星霜。
彼女たちに出会った事で自分の考え方が540度は変わってしまった。
人を見て態度を変える人やただ可愛いだけの人やお金持ちの人を只管に嫌悪感を示して嘔吐をする毎日に光を見出したのはきんいろモザイク
きんいろモザイクという素晴らしい世界に飛び込んでいけたらどんなにいいだろうか。
きんいろモザイクは間違いなく私にとって麻薬であり、毒薬でもある。

ハロー!!きんいろモザイクの一話を視聴してからも暫くはボーっとなり、手の震えはなかなか治まる事はなかった。
あんな日常を過ごせたらどれだけ良かったか。スラム街育ちの私にとっては激しく羨ましく思い、アリス・カータレットちゃんは勿論、忍や綾、陽子にカレンの可愛さを再認識できた。
ありがとうきんいろモザイク。ありがとう、夢色パレード。ありがとう、Rhodanthe*


Music Palette 1 忍*アリス(初回限定盤)(DVD付)

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Music Palette 2 綾*陽子(初回限定盤)(DVD付)

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Music Palette 3 カレン*穂乃花(初回限定盤)(DVD付)

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ぐっちこと、山口綾香という女性を見ると一瞬で思春期に還らせてくれる。

友人たちから親しみを込めて呼ばれる名は“ぐっち”
本名は山口綾香。
志村貴子が描く娘の家出という漫画に登場するキャラの一人だ。

娘の家出という漫画は思春期で再婚した母。離婚して以来、「彼氏」と暮らす父。
そんな家族に囲まれて生活する高校生のまゆこはいま思春期の真っ只中。
まゆこの「家出」から始まった、さまざまな人生が交差する心に染むランナウェイ・ストーリー。
(公式引用:娘の家出/志村貴子 | ジャンプ改 公式サイト

オムニバス形式で進行されており、志村先生が描く優しく淡い絵柄の中には、どこか胸が抉られてしまう感覚に陥ってしまう。
今回はそんな作品の内容ではなく、一人の人物に注目したい。


第一印象は嫌いだった

ぐっちが登場したのは#5 わたしの青い鳥という話だった。
まゆこが友人に親が再婚することを打ち明ける所から始まる。

彼女が山口綾香。巷ではぐっちと呼ばれている。
チーム離婚というのは全員親が離婚をしている四人組。
構成員は主人公のまゆこ、ニーナ、きゃなこ、ぐっちだ。

見た瞬間に「あ、俺の嫌いな感じの奴だ」と思った。
生理的やそういった感情ではない。
容姿は全く違うが、放浪息子の佐々ちゃんを彷彿させるが、俺は一瞬で彼女を見抜いた。

なんとなく嫌い

そう思った。
理由は分からない。
悲しいことね、人間の心理ね。
リンカーンの取ってつけたようなガヤもなんとなく嫌いだし、ラジオのしょうもないコントやトシちゃんの言動もなんとなく嫌い。
なんとなく嫌いなものは沢山あり、ぐっちも“なんとなく”に該当していると思った。
もし、ぐっちの口元がお口アナルだったら、その理由はすぐに気付いたかもしれない。
あいつの口元がアナルみたいだから無理と言えばいいのだから。
だが、ぐっちの口はアナルでもなんでもなく、前歯が可愛らしい小動物のような女の子だった。
寧ろお口アナルはどちらかと言えば同じチーム離婚のニーナの方ではないかと思う。

言うほどでもなかった……というか、普通にニーナも可愛かった。


変化
第一印象は嫌いだったが、それはすぐに変化が起きた。
同じく#5 わたしの青い鳥という回での彼女の言葉を見て少しだけ変わり始めた。

「もーしょーがないなーきゃなこ離婚されたてだし、付き合ってやるよ――」

左のきゃなこが高尾山に行きたいと言った後の会話だ。
きゃなこは離婚をする前に家族で高尾山に行く計画を立てていたが、祖母のぎっくり腰や色々といざこざが起こっているうちに家族が離婚をしてしまい、家族で高尾山に登る夢は絶たれてしまった事を話すきゃなこを見兼ねて言った言葉だった。
素晴らしい。ぐっちは素晴らしい。
このコマの前に心情を吐露した後のきゃなこを見て、チーム離婚は少し間ができてしまうシーンがあり、その後のコマが上の画像。


ドラゴンボールの悟空みたいだ……」


このシーンを読んで思った率直な感想だ。
そもそもチーム離婚というチームを作ったのはぐっちだった。
最もぐっちが一人で命名し、チーム離婚と言っているのもぐっち一人である。
最初はそこまで仲が良くなかった四人。仲が良くなるきっかけは皮肉にも家族の離婚であった。
だからこそ、チーム離婚という仲良し四人組というグループを大切にしているのではないか。

このコマ以外にもぐっちが空気を読む場面がいくつも見かける。

まゆこが家出をしたという話から、お口アナルこと、ニーナもまゆこの言葉に便乗したシーン。
“自立”という言葉はよく思春期の子供が口にする。
だが、この子たちは境遇が境遇だけにやけに自立という言葉の背景が濃く浮かび上がっているような気がする。
そんなお口アナルこと、ニーナの言葉を聞いたあとのぐっちは

じゃ――しちゃう?ぷち家出
この後にきゃなこが高尾山に行きたいという言葉を吐く。
ぐっちの一言は、必ず三人を動かしているような気がしてならないと娘の家出1巻を読んで思うわけだ。


帰りたくねえ―――――

娘の家出のシーンでの名シーンの1文である。
高尾山を登っている最中の会話で家族の問題でお口アナルこと、ニーナが叫んだ言葉だった。
山なんかじゃ満たされないと声を上げて泣くシーンは1巻でも印象深い。

そんなお口アナルが登山中に泣く姿を見たぐっちは、思案顔の表情でニーナを見つめているのが分かる。
このぐっちという女性は、放浪息子でいう佐々ちゃんではないかと思う。

彼女も人一倍友達想いであり、天使である。彼女の事を悪く言う人はあまり見ない。
そんなぐっちも佐々ちゃんに近い何かを持っている気がする。

このように慰めるぐっちもやはり、ミューズでファルファタールなのだろう。
真面目な事を言った後に必ず何かを言うぐっちは、恐らく照れ隠しだろうか。
この時点で私がぐっちに抱いていた第一印象はすっかり忘れ去られていた。


父親に似なくて良かった。

娘の家出2巻では意外にも早く、ぐっちの家庭環境の話がフォーカスされる。
私はてっきり「ぐっちだから多分、親も円満離婚か何かだろう」そう思っていた。
ただ、思っていた以上にぐっちの家庭環境は闇が深かった。
端的に言うとぐっちの父親は芸能人で、ぐっちとぐっちの母親を置いて蒸発をしてしまった。
ちなみに父親というのは、バンドマンである。

念の為に言うが、ぐっちの父親とグッチ裕三には関係性は全くない。
恐らくモデルでもないだろう。
ただ、繋がりが“ぐっち”というだけで結びつける人もいるようだから簡単に否定をしたいと思う。

  • ぐっちの父親は“フミくん”と呼ばれ、グッチ裕三は“グッチさん”や“ハッチポッチの人”と言わている。
  • フミくんの音楽はロック・ミュージックであるが、グッチさんはブラックミュージック。
  • #9 クルクルミラクルを読むとぐっちのフミくんは自分勝手。

フミくんの音楽がロック・ミュージックだと思わせる描写がある。
それは彼が着ていた服にある。

NIRVANAです。Hello, hello, hello, how low〜。

恐らくカート・コバーンに憧れているのだろう。
NIRVANAのバンドTシャツを着ている人がシンフォニック・メタルなんて想像付かないし、そもそも日本でシンフォニック・メタルなんて売れる訳がないと思う。
週刊誌で報道されてしまう程の人物であるのなら、そこそこに売れていることが想像が付く。
週刊誌の見出しで薬物中毒疑惑があったと取り上げられている。恐らくフミくんはカート・コバーンの人間性もリスペクトしていたのだろうか。

また、グッチ裕三は音楽やモノマネだけではなく、料理が得意というのは有名な話だ。
一方でフミくんは料理をしている描写はないものの、勝手に蒸発をしたり、勝手な理由でぐっちの母親に別れてくれと土下座をする場面がある。
偏見で申し訳ないが、フミくんが料理が得意だろうとは私には思えない。
この時点でフミくん、グッチ裕三説は考えられないと思いたい。
話は逸れてしまったが、ぐっちはつくづく父親に似なくて良かったと思う。
幸い、父親がいる環境で育たなかったぐっちは、容姿や性格と共に母親似になったのは本当に良かったのではないだろうか。


ぐっちは思っていた以上に大人。

これは容姿とかの話ではなく、言動や行動、考え方に関しては、そこらの高校生よりも立派な大人なのではないかと思う。
父親がいなかった事で、プラスの方面に寄っているのではないか。
#9 クルクルミラクルでは、母親のめぐみやぐっちの回想シーンが出てくる。
母親は父親のフミくんと出会ってから、若気の至りのシーンまで描かれている。
一方でぐっちの回想は父親が居なくなってからの母親の言動についての回想だ。

その中でぐっちの言葉で大人だな、と思った箇所を見つけた。


当時小学3年生である。

この言葉は私は正論ではないかと思う。
いくらクズであっても、子供にはそのような事を言っては駄目だ。
やり場のない気持ちがあるのは分かるが、それを子にぶつけた所で何も得なんてしないと思う。
だが、母親を責めてしまうのも酷な話である。母親は何も悪いことをしていない。全ての元凶は父親にあり、その沸々と煮えたぎった蟠りを父親にぶつけてみたいが、そんな父親は蒸発をしてしまった。
ことあるごとに母親のめぐみが父親の事をクズ、クズというのを聞いて鬱陶しくなった時にぐっちが言った言葉には小学3年とは思えない重みが感じ取られていた。

また、まゆことぐっちの会話でまゆこが「ぐっちは、うちらん中でいちばん大人だから油断しそうになる」という発言もある。
本人は自覚はしていないようだが、やはりチーム離婚の中でも子供っぽいけど大人っぽいのは彼女の魅力の一つだろうか。

人を許すという行為は時と場合によっては人を殺すよりも難しいと思う。

この話の中でも最大のポイントが人を許すか許さないかだと思われる。
人が起こした出来事に対して、受け入れたり、自分が思っていた真逆の事を理解する事が必要であり、許すことは自分、つまりぐっちとぐっちの母親自身が変わらないといけない事だ。

「許さなくてもいいと思うんだよね。ぐっちも。ママも」

通話中にまゆがぐっちに言った言葉だ。
ぐっちの母親は自分やぐっちが捨てられた事が許せなかった。
一方でぐっちが物心が付く頃には父親が居なかった為に許す、許さない理由は分からない。
だが、ぐっちも母親と同じく許さないという選択肢を取った。

「大切な人たちを傷つけたあなたをわたしは多分一生許しません」
「せめてわたしだけでもクズとは呼ばずにあなたの事を忘れます。さようなら」

父親の事は知らない。母親やインターネット上ではクズ、クズと言われている父を見て、このような考えを思えるぐっちは凄い、そして忘れるという言葉に、ぐっちの大切な人への思いやりの心が見え隠れしているように見えた。
仮にインターネット上で見たやり取りを見て「クッソ……父親ムカつくわ!こんのクズ野郎!青い空見るわ!」みたいな事をぐっちが言っていたら、恐らく私は興が醒めていただろう。
最後までブレないぐっちに、私はただ驚きと感心するだけだ。

最初はムカつき、数頁捲った頃には可愛いと呟き、2巻を読み終えた頃には彼女に感心をしていた。
自分が同じ歳だった頃と当て嵌めると、ぐっちとの共通点は人間と黒い髪くらいしかない、そう思うとやっぱりぐっちになるのは中々難しい事だ。

あ、2巻の話では#11 17歳が一番好きです。

タイニーストーリーズは美しく、そして残酷。

山田詠美
最近になって再びアホのように読み始めたのは山田詠美作品。

恋愛物と言えば山田詠美と言っても過言ではない。
最も私も山田詠美作品とエロゲーくらいしか恋愛物は読んだ事などないが。

高校時代は山田詠美の小説をとにかく読み、勝手に「青春ってええなぁ・・・」って浸っていたのも今では懐かしい話だ。
この人はとにかく恋を書くのが上手い。童貞達や恋にあまり興味がない人達には読んでもらいたい。
再び私が山田詠美作品を読み始めたきっかけはタイトルにある通り『タイニーストーリーズ』

21作品が収録された短篇集である。
世の中には色々な物が形成されており、視点を変えてみると色々な物が見えてくる。
電信柱がさくら草の恋を描いた話だったり、大学の講師の彼女からマリファナを教わったり、セックスしたり不倫したり、ギャグがあり、セックスしたりと1つ20数頁と少ないはずなのに、それを感じさせない濃厚な話は、それは個性的でセッックス描写も素晴らしい。

タイニーストーリーズを読了した後にすぐに感想記事を書いてはみたが、恐らく半年、いや三ヶ月後には話の内容は忘れていると思う。
あめ玉のように様々なテーマで散りばめられた短篇集は確かに面白いが、山田詠美特有の世界観は少し哲学的で……正直よう分からん。